米金融安定化法案について

昨日の米国マーケットはダウ工業平均指数で-777.68ポイントと過去最大の下げ幅、率では-6.98%と2001年9月11日同時多発テロ以来の下げ率となった。
直接的な原因は、ホワイトハウスが提案した金融安定化法案が下院で否決されたこと。
米金融安定化法案というのは7000億ドルの公的資金による不良資産買い取りをメインとする金融機関救済法案である。今回はこの法案についての私見と、今後米国の取るべき方向と日本の取るべき方向を述べてみたい。

金融安定化法案の是非

結論から言うと、本法案が否決されたことは残念であると同時に、米国議会の高い信頼性を裏付けたと思う。
本法案は、サブプライムローン問題に端を発する、大規模な保険・投資銀行都市銀行の破綻懸念を和らげることを目的とした、ホワイトハウスのここ数日間の取り組みの成果であるといえる。その法案が否決されたことは、時間的制約の大きい信用不安解決を、間接的に後退させたことにほかならない。そういった意味ではとても残念な結果といえる。
しかし、本法案がベストな提案かといえば、後述する理由によってそうは思えない。その点、本法案を否決した議会は高い信頼性をなお保持しているといえる。たとえそれが、大統領選挙対策の結果であるとしても。

本法案には大きな問題が2つある。ひとつは不良債権を買い取るという手法の問題、そしてもうひとつは現経営陣の責任の希薄化という問題である。

不良債権を買い取るという手法の問題

不良債権を買い取るからには、不良債権に値段をつけなければいけないが、公的資金による買い取りは利益を目的とした取引ではないために、プライシング方法が不明瞭であるということに帰結する。
この場合の買取は、自由市場から行われるものではなく、金融機関との相対取引で行われる。自由市場での取引ではないために、多くの問題が発生する。
不良債権を持つ金融機関は、いうなればインサイダーであるために、政府よりも詳細に債権についての情報を知っている。情報弱者である政府は不良債権を不当に高く買わされる危険性が高い。
公的資金はいうまでもなく国民の税金である。国民の税金を、不当に少数の企業に対し供与しているとすら言い換えることができる。

現経営陣の責任の希薄化という問題

本法案による救済案は、金融機関をそのまま存続させることを意図している。
しかし、経営危機に瀕する金融機関は、マネジメントにおいて欠陥があったために、看過できないリスクをとったのである。
通常、こうした経営陣は責任を取る義務がある。

なにがベストか

では、どのような要件を盛り込めばベストな提案といえるのだろうか。
原則として、以下の3点を満たす必要がある。

  1. 信用不安を解消すること
  2. 現経営陣の責任を追及すること
  3. なるべく市場原理に沿うこと

債務超過に陥っていない金融機関に対しては、公的資金による資本注入を行うこと。(不良債権の買取ではなく、資本として)
債務超過に陥った金融機関に対しては、全株式を政府に移し国有化して、長い時間をかけて分割・解体を行うこと。
これによって、信用収縮の連鎖反応を食い止めたい。

日本の果たせる役割

アメリカは高い教育水準と優れた自由に対するシステムを持っている。今のパニックを過ぎれば適切に機能して、再び繁栄への道筋を歩みだすだろう。しかし、今のパニックを適切に処理することができなければ、失業率が30%を超えるような大恐慌、1929年から始まる一連の歴史を繰り返すことになる。
信用収縮には迅速な資本注入が効果的だ。
米議会はいまだ、資本注入をする準備が整わない。パニックと、資本家に対する憎悪、そして大統領選。国民感情の上に成り立つ議会制民主主義は、もはや機能不全に陥りかけている。
そんな中、主体的に動ける大資本が存在する。金本位制であったかつての大恐慌とは違い、優れた信用に基づくハードカレンシーがある。円と元だ。円と元は、高い貿易黒字・経常収支に支えられ、膨大な外貨準備を保有している。
もっとも、ここで指摘するまでもなく、市場原理は投資機会をとらえている。
MUFGは、Morgan StanleyとUnionBanCal Corporationに資本を注入する予定だし、野村證券はLehman Brothers Holdingsのアジア・ヨーロッパ圏の雇用を引き継いだ。MSFGはGoldman Sachsの資本増強要請に応える姿勢を見せた。
これにとどまらず、機会と見るや迅速に行動する、金融資本家の素地と資本を日本は有する。
アメリカは資本を欲している。日本には資本がある。この流れを、国家をあげてバックアップすることが必要だ。高い生産性と、強い通貨はこのチャンスを待っていたかのように思われる。円高不況というアンバランスは、今このタイミングで優れたスパイラルを発揮するだろう。
失われた90年代に、確かに日本経済は後退したが、勤勉な国民性は次の段階を登りはじめた。